中国語・中国人・中国料理2
中国で兎が夏王朝を開いたのがBC2070年。その都が洛邑でした。BC4000年くらいから稲作が行われていたといいますから、土木、灌漑技術に優れていたということでしょう。洛邑の洛は洛河という河の名前で、そのほとりにあった町だったので洛邑でした。その後殷を倒した周公が洛邑を洛陽として周を建国したのは3000年くらい前のことでした。洛河の陽の方位である北側にあったので洛陽です。
因みに「夏」を中日辞典で引いて見ると「中国の古称」と書いてあります。「华夏」とも。もっと以前の夏の意味を知りたかったのですが、手元の辞書では不明です。夏王朝があったから、夏が中国の呼称になったのでしょう。では兎はなぜ王朝名を夏にしたのでしょうか?これは謎です。
洛陽は歴史上、夏、商(その後期が殷)、東周、後漢、曹魏(三国志の魏です)、西晋、北魏、隋、唐、北宋が次々と都を置いたので、「九朝の古都」と呼ばれます。史跡等みるべきものも多いのですが、何故か日本からの観光は北京、上海、西安に偏っています。自分が行きたいところへ行くのが旅の基本ですが、その「行きたいところ」を決めるのが旅行会社のキャンペーンですから、淋しい話です。「食べたいもの」や「お土産」の選択まで、業者の思うままに決められています。まことに残念と言わざるを得ません。
当時日本は中国から見れば「東夷」の一で、後漢のころ57年に倭の奴国王が、曹魏のころ238、243年に卑弥呼の使者が洛陽に朝貢しています。古い話とはいえ、日本はまだ、卑弥呼の邪馬台国(読みは不詳)すら、本当にあったのか、その場所すら今に至るもわからないというレベルの国でした。そもそも当時の日本を知るのに、非文明であったわが国自身の記録がないので、当時文明国であった中国の魏志倭人伝や漢書東夷伝の記述に頼らなくてはならないこと自体結構恥ずかしい事実です。当時の中国は日本にとっては今のアメリカのようなもので、文字すらもたない野蛮国から、中国の王朝が変わるたびに、貢ぎ物をもって参内していた次第でしょう。それが誤った明治維新で富国策に走って、国策を大いに誤り戦争に突入したために今度はアメリカに完膚無きまでにたたかれて、今度は米国に尻尾をふる忠犬に成り下がり、今度は西洋の誤ったアジア蔑視の思想を押し頂いて、中国や朝鮮を下に見る姿勢をとるところまで落ちぶれてしまいました。
因みに「夏」を中日辞典で引いて見ると「中国の古称」と書いてあります。「华夏」とも。もっと以前の夏の意味を知りたかったのですが、手元の辞書では不明です。夏王朝があったから、夏が中国の呼称になったのでしょう。では兎はなぜ王朝名を夏にしたのでしょうか?これは謎です。
洛陽は歴史上、夏、商(その後期が殷)、東周、後漢、曹魏(三国志の魏です)、西晋、北魏、隋、唐、北宋が次々と都を置いたので、「九朝の古都」と呼ばれます。史跡等みるべきものも多いのですが、何故か日本からの観光は北京、上海、西安に偏っています。自分が行きたいところへ行くのが旅の基本ですが、その「行きたいところ」を決めるのが旅行会社のキャンペーンですから、淋しい話です。「食べたいもの」や「お土産」の選択まで、業者の思うままに決められています。まことに残念と言わざるを得ません。
当時日本は中国から見れば「東夷」の一で、後漢のころ57年に倭の奴国王が、曹魏のころ238、243年に卑弥呼の使者が洛陽に朝貢しています。古い話とはいえ、日本はまだ、卑弥呼の邪馬台国(読みは不詳)すら、本当にあったのか、その場所すら今に至るもわからないというレベルの国でした。そもそも当時の日本を知るのに、非文明であったわが国自身の記録がないので、当時文明国であった中国の魏志倭人伝や漢書東夷伝の記述に頼らなくてはならないこと自体結構恥ずかしい事実です。当時の中国は日本にとっては今のアメリカのようなもので、文字すらもたない野蛮国から、中国の王朝が変わるたびに、貢ぎ物をもって参内していた次第でしょう。それが誤った明治維新で富国策に走って、国策を大いに誤り戦争に突入したために今度はアメリカに完膚無きまでにたたかれて、今度は米国に尻尾をふる忠犬に成り下がり、今度は西洋の誤ったアジア蔑視の思想を押し頂いて、中国や朝鮮を下に見る姿勢をとるところまで落ちぶれてしまいました。
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