海恋し
海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(をとめ)となりし父母(ちちはは)の家
大抵の方はご存知の、与謝野晶子の歌です。晶子の生家は私が卒業した、大阪府立三国ヶ丘高校から遠くなかったので、わざわざ見に行ったこともありました。駿河屋さんという羊羹が有名な和菓子屋さんでした。時代は違いますが、彼女の出身高校は今の泉陽高校で、私が高校生の頃は、近隣の三高校を、三国監獄、泉陽牧場、鳳地獄と言って揶揄していたものでした。三国ヶ丘は塀が立派だったから、泉陽は自由な雰囲気だったから(泉陽高校のセーラー服の女子が眩しかった)、鳳は受験指導が厳しかったから、というのがその呼び方の根拠だったと聞いていました。三国ヶ丘は大和川以南では、知られた進学校でしたが、女子は寝癖髪で登校してくるし、肩に頭垢が付いていたりして、興ざめでした。当時教室のお掃除は係の人がいて、生徒はしなくてよかったのですが、これは普通のことだったのでしょうか?それと、今でも覚えているのは、トイレが男女共用でした。男子が小用を足す横で、女子が個室の順番を待っている、のも日常の光景でした。
堺から泉南にかけては、延々と松林の海水浴に適した砂浜が広がっていましたが、いつの間にかすっかり煙突が火を噴く臨海工業地帯と変わり果てて、府民の憩いの自然は失われてしまっていました。晶子が詠んだ「海恋し」の海は、当時の為政者(左藤義詮!)の過ちから、永遠に失われてしまったのです。
私の生まれも高知県宿毛市の西端の海を望む漁師の家でした。宿毛出身の有名人には、間寛平さんがいます。遺伝子の影響か、私の叔父に寛平さんそっくりの者がいます。性格もお笑い系で、小さな町ですから、どこかで繋がっているのかも知れません。生家は大島という、宿毛から少し海に飛び出した島で、生家からほど近い浜からは、見事なダルマ夕陽が望めるので、写真ファンにはご存知の方もおられるかも知れません。
祖父は当時としては新しい人間で、戦死した兵士について、「天皇が殺したがじゃ」、と言っていました。祖父はとても優しくて、決して私を叱ったりしませんでしたが、祖母はその反対にとても厳しくて、いつも怒鳴られていた記憶があります。私のせいで、家中の障子や襖は、いつもボロボロで、祖母が怒るのも、今思えば、いたしかたないことだと思います。障子を張るのは、祖母の仕事だったのですから。寛平似の叔父があるとき、祖父に「お前も苦労したけんど、金は残せんかったのう」とからかったことがあって、その時の祖父の応答が秀逸で、忘れられません。「何言うちまりよりゃ、ワシは10人の子を残したがじゃけん、一人1千万としても10人で1億ぞ」と。当時の1億円は気の遠くなる額でした。何を大切と思っているか、に、その人の価値観があらわれます。あなたの彼氏は、いざという時に、身を張ってあなたを守ってくれますか?
生活はのんびりとしていて、昼ごはんといえば、祖母は前の海でイサキを釣ってきて、刺身をつくってくれたりしていたものでした。当時は海もきれいで、魚は美味しかった。牛や豚が食卓に上ることは、まずなくて、生きた魚か、蒲鉾やじゃこ天や、ちりめんじゃこや、いりこやといった、海産物ばかり。それから、海は養殖の時代になり、真珠やハマチや鯛やと、一時景気はよくなったもののそれもバブルのあぶく銭で、やがては海は養殖魚の餌や薬品で汚れてしまって、養殖の時代も終わります。あの澄んだ海は死んだのです。人間はなんと愚かなのかと、つくづく思い知らされます。
その祖母が、私が大学に入学したとき、お祝いにと、茶のハトロン封筒で、裸の5000円札を送ってきました。5000円という金額は、当時お世辞にもお祝いとしては大金ではなかったのですが、年寄りのわずかの小遣いの中から工面して送ってくれたのだと思うと、あの厳しかった幼年時代の想い出が重なって、無性に泣けてしかたがありませんでした。自分には、その5000円の値打ちさえない、と真剣に思ったものです。因にどうでもいいことですが、祖母は丙午(ひのえうま)年の生まれでした。
海恋し、です。
大抵の方はご存知の、与謝野晶子の歌です。晶子の生家は私が卒業した、大阪府立三国ヶ丘高校から遠くなかったので、わざわざ見に行ったこともありました。駿河屋さんという羊羹が有名な和菓子屋さんでした。時代は違いますが、彼女の出身高校は今の泉陽高校で、私が高校生の頃は、近隣の三高校を、三国監獄、泉陽牧場、鳳地獄と言って揶揄していたものでした。三国ヶ丘は塀が立派だったから、泉陽は自由な雰囲気だったから(泉陽高校のセーラー服の女子が眩しかった)、鳳は受験指導が厳しかったから、というのがその呼び方の根拠だったと聞いていました。三国ヶ丘は大和川以南では、知られた進学校でしたが、女子は寝癖髪で登校してくるし、肩に頭垢が付いていたりして、興ざめでした。当時教室のお掃除は係の人がいて、生徒はしなくてよかったのですが、これは普通のことだったのでしょうか?それと、今でも覚えているのは、トイレが男女共用でした。男子が小用を足す横で、女子が個室の順番を待っている、のも日常の光景でした。
堺から泉南にかけては、延々と松林の海水浴に適した砂浜が広がっていましたが、いつの間にかすっかり煙突が火を噴く臨海工業地帯と変わり果てて、府民の憩いの自然は失われてしまっていました。晶子が詠んだ「海恋し」の海は、当時の為政者(左藤義詮!)の過ちから、永遠に失われてしまったのです。
私の生まれも高知県宿毛市の西端の海を望む漁師の家でした。宿毛出身の有名人には、間寛平さんがいます。遺伝子の影響か、私の叔父に寛平さんそっくりの者がいます。性格もお笑い系で、小さな町ですから、どこかで繋がっているのかも知れません。生家は大島という、宿毛から少し海に飛び出した島で、生家からほど近い浜からは、見事なダルマ夕陽が望めるので、写真ファンにはご存知の方もおられるかも知れません。
祖父は当時としては新しい人間で、戦死した兵士について、「天皇が殺したがじゃ」、と言っていました。祖父はとても優しくて、決して私を叱ったりしませんでしたが、祖母はその反対にとても厳しくて、いつも怒鳴られていた記憶があります。私のせいで、家中の障子や襖は、いつもボロボロで、祖母が怒るのも、今思えば、いたしかたないことだと思います。障子を張るのは、祖母の仕事だったのですから。寛平似の叔父があるとき、祖父に「お前も苦労したけんど、金は残せんかったのう」とからかったことがあって、その時の祖父の応答が秀逸で、忘れられません。「何言うちまりよりゃ、ワシは10人の子を残したがじゃけん、一人1千万としても10人で1億ぞ」と。当時の1億円は気の遠くなる額でした。何を大切と思っているか、に、その人の価値観があらわれます。あなたの彼氏は、いざという時に、身を張ってあなたを守ってくれますか?
生活はのんびりとしていて、昼ごはんといえば、祖母は前の海でイサキを釣ってきて、刺身をつくってくれたりしていたものでした。当時は海もきれいで、魚は美味しかった。牛や豚が食卓に上ることは、まずなくて、生きた魚か、蒲鉾やじゃこ天や、ちりめんじゃこや、いりこやといった、海産物ばかり。それから、海は養殖の時代になり、真珠やハマチや鯛やと、一時景気はよくなったもののそれもバブルのあぶく銭で、やがては海は養殖魚の餌や薬品で汚れてしまって、養殖の時代も終わります。あの澄んだ海は死んだのです。人間はなんと愚かなのかと、つくづく思い知らされます。
その祖母が、私が大学に入学したとき、お祝いにと、茶のハトロン封筒で、裸の5000円札を送ってきました。5000円という金額は、当時お世辞にもお祝いとしては大金ではなかったのですが、年寄りのわずかの小遣いの中から工面して送ってくれたのだと思うと、あの厳しかった幼年時代の想い出が重なって、無性に泣けてしかたがありませんでした。自分には、その5000円の値打ちさえない、と真剣に思ったものです。因にどうでもいいことですが、祖母は丙午(ひのえうま)年の生まれでした。
海恋し、です。
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