阿弖流為(あてるい)の碑
清水寺が今年も紅葉・夜間拝観で賑わっています。清水詣でに、同時に境内の地主神社を詣でることは、もはや常識で、縁結びの霊験あらたかなのかどうか、 神のみの知るところです。地主神社境内の杉には「子の刻参り」の五寸釘の痕が鮮明に残っています。ある人が大望を成就すれば、その陰に泣く人がまた現れる のは、いたしかたないことです。
清水の境内に平安遷都1200年の記念事業の一つとして、2007年3月に阿弖流為(あてるい)と母禮(モレ)の碑が建立されました。同碑は 世界遺産の舞台を右に見上げる緩やかな坂の中程にひっそりと佇んでいます。その前をそれと知らずに通り過ぎる人が大多数ですが、心あらば数秒のお時間を割 いて、手を合わせてあげていただきたい気持ちです。
阿弖流為(あてるい)は皇室中心の日本史の授業では取り扱われないかも知れませんが、征夷大将軍、坂上田村麻呂のことは知らない人は少ないだ ろうと思います。13年間にわたり、朝廷軍を悩ませた蝦夷の将、阿弖流為(あてるい)は坂上田村麻呂の3回の遠征の後、彼の軍門に下ります。同じく将・母 禮(モレ)とともに都へ連行された阿弖流為(あてるい)と母禮(モレ)を、田村麻呂の懸命の助命の申し入れにもかかわらず、公卿たちは処刑を命じ、旧河内 国の椙山で斬首されたと伝えられています。近年、周辺部族等への関心が高まるまでは、両人は歴史の闇に葬られ、忘れ去られてきました。
皇国史観に立つのでなければ、当時蝦夷地と呼ばれた東北の地にあって、民族の誇りを胸に果敢に朝廷軍に抗した彼らもまた、日本史上の英雄に列するものだと思います。
時代は下って、芭蕉は名著「奥の細道」の中に、
夏草や 兵どもが 夢のあと
という名句を残します。義経主従をめぐる乱を思い、詠んだものですが、芭蕉の胸中に、同じく衣川の上で熾烈を極めた、若き平安朝廷と蝦夷の闘いが過ぎったのではないかと、私は思っています。
阿弖流為(あてるい)のことは、別に知らなくても、私たちの日常に何ら変わりはありません。清水寺は相変わらず、そんなことはどうでもいい人々 で満ち溢れています。歴史の中に、自分を見つけることは、歴史というものを支配、独占しようとする人たちとのささやかな闘いの課程だということを、知る きっかけだと思います。
http://www.city.oshu.iwate.jp/maibun/newpage4.htm
清水の境内に平安遷都1200年の記念事業の一つとして、2007年3月に阿弖流為(あてるい)と母禮(モレ)の碑が建立されました。同碑は 世界遺産の舞台を右に見上げる緩やかな坂の中程にひっそりと佇んでいます。その前をそれと知らずに通り過ぎる人が大多数ですが、心あらば数秒のお時間を割 いて、手を合わせてあげていただきたい気持ちです。
阿弖流為(あてるい)は皇室中心の日本史の授業では取り扱われないかも知れませんが、征夷大将軍、坂上田村麻呂のことは知らない人は少ないだ ろうと思います。13年間にわたり、朝廷軍を悩ませた蝦夷の将、阿弖流為(あてるい)は坂上田村麻呂の3回の遠征の後、彼の軍門に下ります。同じく将・母 禮(モレ)とともに都へ連行された阿弖流為(あてるい)と母禮(モレ)を、田村麻呂の懸命の助命の申し入れにもかかわらず、公卿たちは処刑を命じ、旧河内 国の椙山で斬首されたと伝えられています。近年、周辺部族等への関心が高まるまでは、両人は歴史の闇に葬られ、忘れ去られてきました。
皇国史観に立つのでなければ、当時蝦夷地と呼ばれた東北の地にあって、民族の誇りを胸に果敢に朝廷軍に抗した彼らもまた、日本史上の英雄に列するものだと思います。
時代は下って、芭蕉は名著「奥の細道」の中に、
夏草や 兵どもが 夢のあと
という名句を残します。義経主従をめぐる乱を思い、詠んだものですが、芭蕉の胸中に、同じく衣川の上で熾烈を極めた、若き平安朝廷と蝦夷の闘いが過ぎったのではないかと、私は思っています。
阿弖流為(あてるい)のことは、別に知らなくても、私たちの日常に何ら変わりはありません。清水寺は相変わらず、そんなことはどうでもいい人々 で満ち溢れています。歴史の中に、自分を見つけることは、歴史というものを支配、独占しようとする人たちとのささやかな闘いの課程だということを、知る きっかけだと思います。
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