京の路地から From Kyoto with Love

Why don't you visit Kyoto to meet something new? 京都は私の空気、水のようなもの。新しい京都、古い京都。その中で、日々綴った、現代の枕草子。

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Location: 京都市, 京都府, Japan

悪戯な好奇心の猿一匹、飼っています。Keeping a curious monkey in my mind.

Nov 20, 2009

謙譲の国

 歪な世の中では、文化も教養もねじ曲げられて、いつも新人はふりまわされます。そして、右へ倣って、結局周囲と同じ歪な先輩と化していってしまいます。初で可愛かった女性も、ただの怖いおばさんになってしまっています。

 ひとつに「敬語」という怪物があります。テレビ番組などで、正しい敬語の用法みたいな番組を組んで、敬語とは縁もゆかりもなさそうな女子アナ や、口耳三寸の学をひらけかす、気持ちの悪い大学教授みたいな奴がでてきて、重箱の底をつつきまくって、一般の聴取者がいかにものを知らないかを暴きたて ています。正しい敬語の使い方って、そもそも敬語が必要かどうか、から論じて欲しい。腹のなかで軽蔑している人に、口先だけ「敬語」なんて、偽善の極地で す。

 実際、そこまで必要ないと思います。言葉は、あることを伝えるためにあるものだから、それを正しく伝えることが一義です。その言葉遣いに、話し 合う人の間のありもしない上下関係までもちこもうとするのが敬語の本態です。封建時代の妖怪が、言葉の世界にまだ生き残っている、のが実情です。

 ここで、「謙虚」であるということは一体どういうことか、ということが問題です。とにかくへりくだって、卑屈になることを美徳とする封建教育に 負けてはいけません。謙虚であるということは、というか、何に対して謙虚でなくてはならないか、ということですが、これに対しては、「真理以外のなにもの にも頭を垂れる必要はない」、ということです。これは言葉遣いの問題ではありません。上役だから、相手が怖いから、地位のある人だから、とか全く無意味で す。「敬語」とは、結局、金持ちや地位の高い人に媚びるための方策です。日本の社会は、特に、金持ちや権力者に弱い特徴をもっています。先の戦争の戦勝国 のひとつにすぎないアメリカに(中国も戦勝国です)、いまだに尻尾をふって靴を舐める低姿勢、銃剣と戦車で土地を略奪された沖縄の人々を人身御供にしてい る恥ずかしい国です。これは政府の問題ではなく、私たちひとりひとりの問題です。沖縄で数知れない少女たちが強姦されていても、極東の平和のためにはアメ リカの駐留はやむを得ない?、と思っている国民の不甲斐なさというか、冷酷さというか。そのくせ、中国や北朝鮮に対しては、いやに高飛車です。実際に少女 たちを強姦しているのはアメリカなのに。イスラム圏の人に言わせれば、原爆を落とした張本人に、なぜペコペコしているのか?という情けなさです。
 
 研修医だったころ、ある薬品会社の営業マンに、「先生は教授に対しても、私たちに大しても全く同じ言葉遣いで接していらっしゃいますね。感動し ました。」と言われたことがあります。他の研修医や講師、助手と呼ばれる人たちは、見ている方が恥ずかしいくらいに卑屈で、目上に対して、文字通り「にこ ぺこ」で、これが真理の府といわれる大学の内情かと、あきれたことがあります。私はそんなですから、上からはあまりよく思われていないのかも知れません が、別にだからと言って何の支障もなく今日まで働いてきました。「敬語」なんて枝葉末節の問題です。

 中間管理職に大事なことは、アップダウンの日本の企業体質に断固抵抗して、実際に現場で働く人の声を上にぶつけて、ダウンアップの営業体質を実 現することです。現場を知らない奴らが決めたことを、下に伝えても業務は改善しません。上に嫌われることを恐れる御仁には、管理職になる資格はないものと 断定できます。「敬語」を遣っても、遣わなくても、上に対して、言うべきことを言う、これが一番大切なことです。尊敬もできない上司に対して、形ばかりの 敬語を遣う必要はまったくありません。

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