島原地方の子守唄
島原と言えば、まず、北原白秋の「邪宗門」を思い出します。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍它(ちんた)の酒を。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4850_13918.html
子守唄は子供を寝付かせるための唄なのですが、哀しい曲調のものが多くて、一度聴いたら忘れられないものが多くあります。京都の民謡で「竹田の 子守唄」はフォーク・グループの赤い鳥のミリオン・セラーを記録しました。が、ある理由で現在は放送禁止歌の扱いを受けていて、ミリオン・セラーにもかか わらず、赤い鳥の「ベスト・アルバム」にも収録されていません。五木の子守唄も、とても好きな歌だったけれど、子供心に、哀しい歌だと思っていました。そ して島原地方の子守唄も、やはり深い哀調が心を打ちます。
http://www.youtube.com/watch?v
島原地方は、日本の歴史上、とても重要なスポットなのですが、一般には「島原の乱」くらいしか知られていないようです。そしてその「島原の乱」 も「キリシタン一揆」という誤った認識をもたれてしまっているようです。「島原の乱」はキリシタン一揆だった、というのは、幕府側の宣伝であり、幕府に都 合のいい結論だったのです。乱に先立つ過酷なキリシタン弾圧で、すでに表だったキリシタンはいなかったし、宣教師も殺されたり追放されたりして、一人もい ませんでした。ローマの認めるキリスト教組織は壊滅していたのです。当時島原は凶作続きで、乱のあった寛永14年の3〜4月には餓死者が多く出ていたとい います。ところが時の領主の勝家は、取り立てをいよいよ厳しくして、租税を納められないものをキリシタン同様とみなしてなぶり殺しました。農民を柱に縛り 付けて蓑を着せて火を付ける「蓑踊り」や、籠に入れて川の流れに漬けておくという刑殺法を実施しました。彼らは知行地を脅してまわって、百姓の食い代まで も取り上げていくようになりました。そして「搾れば搾れるのだ」と自慢していたと記録されています。口之津村の大百姓の与左右衛門は、「なお米を30俵出 せ」と命ぜられましたが、ないものは出せません。すると、彼らは与左右衛門の若い息子の嫁を水攻めにしました。籠にいれて、川に沈めて、「出せば籠をあげ てやる」と脅したのです。しかし与左右衛門には一粒の米もなく、せめて被拷問者を男に変えてくれるよう懇願します。しかし男は耕作の道具であるため、許さ れず、臨月だった嫁は拷問6日目に水中で児を産み落として、母子共に死亡します。(司馬遼太郎「島原・天草の諸道」朝日文庫p101〜103)
島原地方は、その子守唄から類推できるように、とても貧しい地方でした。
「はよ寝よ泣かんでおろろんばい、鬼の池久助どんの連れんこらるばい」
というくだりは、その辺の事情をよく物語っています。泣いていないで早く寝ないと、鬼(おん)の池久助という女衒(ぜげん)が連れに来て、女郎に 売られてしまうよ、という何とも恐ろしい歌詞です。しかし、その地方では、女衒に娘を売って口減らしをしないと、食っていけないくらい貧しい時代が長く続 いたのだろうと推測せられます。「島原の乱」も領主松倉重政、勝家二代に搾り殺されるばかりに収奪されて、どうせ飢えて死ぬのなら、同じ死ぬのなら、一揆 で死のうという、絶望的な成り行きに追い込まれての事変だったようです。
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/simabara.htm
http://sky.geocities.jp/ppp_dot/index1-sandakan8.html
徳川将軍家に好かれるために、松倉は過酷この上ないほどに、領民を犠牲にしたのです。これは現在、アメリカに好かれるために、日本の政府、マス コミなどすべての国民が沖縄を犠牲にしているのと状況が似ています。
「島原の乱」を過ぎ、明治になっても島原は貧しさから抜け出ることができませんでした。島原半島から天草下島への渡しは、早崎瀬戸を超える30 分の船旅で、島原側の口之津から、天草の鬼(おん)の池へ渡ります。天草から売られた娘たちは、鬼の池の港から売られて行ったのでしょう。鬼の池久助どん という名は、その辺の事情を歌い込んだものと思われます。明治になっても貧しかった天草・島原からは、「からゆきさん」(天草・島原の出身者が多かったそ うです)になって、口の津から、上海や南方の島々、果てはシベリアにまでも、多くの娘たちが売られていったといいます。売られていく娘たちは、三池の石炭 を積んだ貨物船の石炭庫に詰め込まれて、異国に散っていったのです。女衒は娘たちに、「白い飯が腹一杯食える」とか、「父母に仕送りをして恩返しをしろ」 とか言って騙したと伝えられています。その辺の事情は、かつて「サンダカン八番娼館」というタイトルで映画化されました。「からゆきさん」については、島 原以外の地方の日本人は、彼女たちは淫乱で、好きでやっているんだ、と彼女たちを蔑んだといいます。昔も今も、同胞の苦しみに冷淡な日本人の本性とは、一 体何なんだと、情けなくなる逸話です。
http://borneo.web.infoseek.co.jp/simabara.htm
http://sky.geocities.jp/ppp_dot/index1-sandakan8.html
「島原の乱」後、領主の勝家は打首になっています。乱がキリシタン一揆であるならば、勝家の手柄になったはずですが、幕府の調査の結果は、松倉 親子の悪政が原因であったことを認めたものと裁定したものと思われます。切腹ではなくて、武士としては恥辱の打首であったことが、その辺の事情を物語って います。
当時天草の石高が、時の領主が自分の大名としての格を上げるために4万2千石とされたことが、乱の原因となったと今では言われています。実際に は2万石もないかも知れない領地で、それだけの石高を申告すれば、住民の税が過酷になることは目に見えています。乱後、天領となった天草に赴任した代官の 鈴木重成は、松倉親子と違い土地の人々が神と崇拝したほど良心的だったそうですが、彼は幕府に対して、その石高を半減してもらうようさまざまに働きかけた そうですが、一度決められた石高を変更することはできなかったようです。そこで重成は、晩年、出府して願書を提出して自刃したそうです。この自刃によっ て、ようやく石高半減が認められたそうです。
ところで、天草本渡にある曹洞宗延慶寺の石段には、十文字が彫り込まれているそうです。お参りする人が、それと知ってか知らずか、十字架を踏み しめて上がる、ということになっているわけです。徳川権力に屈した当時の日本仏教は、そうやってキリシタン弾圧の先棒をかつぎ続けたのです。
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍它(ちんた)の酒を。
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子守唄は子供を寝付かせるための唄なのですが、哀しい曲調のものが多くて、一度聴いたら忘れられないものが多くあります。京都の民謡で「竹田の 子守唄」はフォーク・グループの赤い鳥のミリオン・セラーを記録しました。が、ある理由で現在は放送禁止歌の扱いを受けていて、ミリオン・セラーにもかか わらず、赤い鳥の「ベスト・アルバム」にも収録されていません。五木の子守唄も、とても好きな歌だったけれど、子供心に、哀しい歌だと思っていました。そ して島原地方の子守唄も、やはり深い哀調が心を打ちます。
http://
島原地方は、日本の歴史上、とても重要なスポットなのですが、一般には「島原の乱」くらいしか知られていないようです。そしてその「島原の乱」 も「キリシタン一揆」という誤った認識をもたれてしまっているようです。「島原の乱」はキリシタン一揆だった、というのは、幕府側の宣伝であり、幕府に都 合のいい結論だったのです。乱に先立つ過酷なキリシタン弾圧で、すでに表だったキリシタンはいなかったし、宣教師も殺されたり追放されたりして、一人もい ませんでした。ローマの認めるキリスト教組織は壊滅していたのです。当時島原は凶作続きで、乱のあった寛永14年の3〜4月には餓死者が多く出ていたとい います。ところが時の領主の勝家は、取り立てをいよいよ厳しくして、租税を納められないものをキリシタン同様とみなしてなぶり殺しました。農民を柱に縛り 付けて蓑を着せて火を付ける「蓑踊り」や、籠に入れて川の流れに漬けておくという刑殺法を実施しました。彼らは知行地を脅してまわって、百姓の食い代まで も取り上げていくようになりました。そして「搾れば搾れるのだ」と自慢していたと記録されています。口之津村の大百姓の与左右衛門は、「なお米を30俵出 せ」と命ぜられましたが、ないものは出せません。すると、彼らは与左右衛門の若い息子の嫁を水攻めにしました。籠にいれて、川に沈めて、「出せば籠をあげ てやる」と脅したのです。しかし与左右衛門には一粒の米もなく、せめて被拷問者を男に変えてくれるよう懇願します。しかし男は耕作の道具であるため、許さ れず、臨月だった嫁は拷問6日目に水中で児を産み落として、母子共に死亡します。(司馬遼太郎「島原・天草の諸道」朝日文庫p101〜103)
島原地方は、その子守唄から類推できるように、とても貧しい地方でした。
「はよ寝よ泣かんでおろろんばい、鬼の池久助どんの連れんこらるばい」
というくだりは、その辺の事情をよく物語っています。泣いていないで早く寝ないと、鬼(おん)の池久助という女衒(ぜげん)が連れに来て、女郎に 売られてしまうよ、という何とも恐ろしい歌詞です。しかし、その地方では、女衒に娘を売って口減らしをしないと、食っていけないくらい貧しい時代が長く続 いたのだろうと推測せられます。「島原の乱」も領主松倉重政、勝家二代に搾り殺されるばかりに収奪されて、どうせ飢えて死ぬのなら、同じ死ぬのなら、一揆 で死のうという、絶望的な成り行きに追い込まれての事変だったようです。
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徳川将軍家に好かれるために、松倉は過酷この上ないほどに、領民を犠牲にしたのです。これは現在、アメリカに好かれるために、日本の政府、マス コミなどすべての国民が沖縄を犠牲にしているのと状況が似ています。
「島原の乱」を過ぎ、明治になっても島原は貧しさから抜け出ることができませんでした。島原半島から天草下島への渡しは、早崎瀬戸を超える30 分の船旅で、島原側の口之津から、天草の鬼(おん)の池へ渡ります。天草から売られた娘たちは、鬼の池の港から売られて行ったのでしょう。鬼の池久助どん という名は、その辺の事情を歌い込んだものと思われます。明治になっても貧しかった天草・島原からは、「からゆきさん」(天草・島原の出身者が多かったそ うです)になって、口の津から、上海や南方の島々、果てはシベリアにまでも、多くの娘たちが売られていったといいます。売られていく娘たちは、三池の石炭 を積んだ貨物船の石炭庫に詰め込まれて、異国に散っていったのです。女衒は娘たちに、「白い飯が腹一杯食える」とか、「父母に仕送りをして恩返しをしろ」 とか言って騙したと伝えられています。その辺の事情は、かつて「サンダカン八番娼館」というタイトルで映画化されました。「からゆきさん」については、島 原以外の地方の日本人は、彼女たちは淫乱で、好きでやっているんだ、と彼女たちを蔑んだといいます。昔も今も、同胞の苦しみに冷淡な日本人の本性とは、一 体何なんだと、情けなくなる逸話です。
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「島原の乱」後、領主の勝家は打首になっています。乱がキリシタン一揆であるならば、勝家の手柄になったはずですが、幕府の調査の結果は、松倉 親子の悪政が原因であったことを認めたものと裁定したものと思われます。切腹ではなくて、武士としては恥辱の打首であったことが、その辺の事情を物語って います。
当時天草の石高が、時の領主が自分の大名としての格を上げるために4万2千石とされたことが、乱の原因となったと今では言われています。実際に は2万石もないかも知れない領地で、それだけの石高を申告すれば、住民の税が過酷になることは目に見えています。乱後、天領となった天草に赴任した代官の 鈴木重成は、松倉親子と違い土地の人々が神と崇拝したほど良心的だったそうですが、彼は幕府に対して、その石高を半減してもらうようさまざまに働きかけた そうですが、一度決められた石高を変更することはできなかったようです。そこで重成は、晩年、出府して願書を提出して自刃したそうです。この自刃によっ て、ようやく石高半減が認められたそうです。
ところで、天草本渡にある曹洞宗延慶寺の石段には、十文字が彫り込まれているそうです。お参りする人が、それと知ってか知らずか、十字架を踏み しめて上がる、ということになっているわけです。徳川権力に屈した当時の日本仏教は、そうやってキリシタン弾圧の先棒をかつぎ続けたのです。
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