京の路地から From Kyoto with Love

Why don't you visit Kyoto to meet something new? 京都は私の空気、水のようなもの。新しい京都、古い京都。その中で、日々綴った、現代の枕草子。

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Location: 京都市, 京都府, Japan

悪戯な好奇心の猿一匹、飼っています。Keeping a curious monkey in my mind.

Apr 15, 2010

嘘つきは泥棒の・・・

 「嘘つきは泥棒の始まり」といって、嘘をつくことを、極度に嫌う人がいます。そのために、子供にことのほか厳しくあたる親がいたり、男女関係に微妙なひびがはいってしまうこともあります。少しく軽口をたたいたために、ガールフレンドに「嘘つき」の汚名を着せられて、こってり絞られて閉口した経験のある男性も、少なくないのではないかと思います。私たちのうちのある人たちが「嘘」というものに対して、それほど潔癖になったのは、残念ながら、日本の長い封建時代の負の遺産だと思っています。

 東京ディズニーランドは、嘘の王国です。西遊記だって全編、嘘っぱちの物語です。お笑い芸人は、嘘で食べているようなものです。映画だって、ほとんどが嘘の世界です。見え透いた作り物のラブストーリーには、涙を流して感動しているくせに、自分のボーイフレンドの、些細な嘘を許せないなんて、なんて心の狭い話なのかと、呆れてしまいます。多分そういう人は、四月バカの日には、耳を塞いで生活しているのでしょう。まさか、東京ディズニーランドでミッキーを捕まえて、「嘘つき!」なんて怒鳴っていたりしないとは思いますが。

 毎日真実だけしか語ってはならないのだったら、この世は窮屈で、味気なく、皆病気になってしまうに違いありません。子供だって、自分がついた些細な嘘に、親がうろたえるのを見て、心の中でにんまりほくそ笑んでいます。そして、後で、一緒に笑うのを楽しみにしているのです。そんな子供が、将来、もっともっと多くの人々を楽しませるエンターテイナーに成長するかも知れません。他人を傷つけない「嘘」が自分と他の人たちをを楽しませる源泉になることを、親自身が認識していないといけないと、私は思います。

 明治の民俗学者である柳田国男先生が、これについて「ウソと子供」という題で、面白いことを書いておられるので以下に引用しておきます。

 「近代の文学論の中には、如何にも中途半端な写実主義というものがあった。生活の真の姿と名づけて、ただ外側の有り形のみを写したものまでが、文芸として許容せられ、そうして我々が眼ざめて、如何なる夢をみるかを省みなかったのである。幼い者の胸に浮かんでくるソラゴトに、何処に真実と対抗するだけの作為があり、彼らの戯れたい心と、快く活きてみようとする試みの、いずれの部分に自然と背いたところがあったろうか。我々はただ一方の害ばかりを恐れて、急いで沢山の花に咲く二葉を摘んでしまったが、それでも雑草のごとき物陰のきたないウソは、そのために少しでも減じようとはしないのである。ほんに無益なる束縛といわねばならぬ。」 (柳田国男「不幸なる文学」、岩波文庫版 p155〜156)

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