京の路地から From Kyoto with Love

Why don't you visit Kyoto to meet something new? 京都は私の空気、水のようなもの。新しい京都、古い京都。その中で、日々綴った、現代の枕草子。

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Location: 京都市, 京都府, Japan

悪戯な好奇心の猿一匹、飼っています。Keeping a curious monkey in my mind.

Nov 30, 2008

阿弖流為(あてるい)の碑

 清水寺が今年も紅葉・夜間拝観で賑わっています。清水詣でに、同時に境内の地主神社を詣でることは、もはや常識で、縁結びの霊験あらたかなのかどうか、 神のみの知るところです。地主神社境内の杉には「子の刻参り」の五寸釘の痕が鮮明に残っています。ある人が大望を成就すれば、その陰に泣く人がまた現れる のは、いたしかたないことです。
 清水の境内に平安遷都1200年の記念事業の一つとして、2007年3月に阿弖流為(あてるい)と母禮(モレ)の碑が建立されました。同碑は 世界遺産の舞台を右に見上げる緩やかな坂の中程にひっそりと佇んでいます。その前をそれと知らずに通り過ぎる人が大多数ですが、心あらば数秒のお時間を割 いて、手を合わせてあげていただきたい気持ちです。
 阿弖流為(あてるい)は皇室中心の日本史の授業では取り扱われないかも知れませんが、征夷大将軍、坂上田村麻呂のことは知らない人は少ないだ ろうと思います。13年間にわたり、朝廷軍を悩ませた蝦夷の将、阿弖流為(あてるい)は坂上田村麻呂の3回の遠征の後、彼の軍門に下ります。同じく将・母 禮(モレ)とともに都へ連行された阿弖流為(あてるい)と母禮(モレ)を、田村麻呂の懸命の助命の申し入れにもかかわらず、公卿たちは処刑を命じ、旧河内 国の椙山で斬首されたと伝えられています。近年、周辺部族等への関心が高まるまでは、両人は歴史の闇に葬られ、忘れ去られてきました。
 皇国史観に立つのでなければ、当時蝦夷地と呼ばれた東北の地にあって、民族の誇りを胸に果敢に朝廷軍に抗した彼らもまた、日本史上の英雄に列するものだと思います。
 時代は下って、芭蕉は名著「奥の細道」の中に、

 夏草や 兵どもが 夢のあと

 という名句を残します。義経主従をめぐる乱を思い、詠んだものですが、芭蕉の胸中に、同じく衣川の上で熾烈を極めた、若き平安朝廷と蝦夷の闘いが過ぎったのではないかと、私は思っています。
 阿弖流為(あてるい)のことは、別に知らなくても、私たちの日常に何ら変わりはありません。清水寺は相変わらず、そんなことはどうでもいい人々 で満ち溢れています。歴史の中に、自分を見つけることは、歴史というものを支配、独占しようとする人たちとのささやかな闘いの課程だということを、知る きっかけだと思います。

http://www.city.oshu.iwate.jp/maibun/newpage4.htm

Nov 26, 2008

宝石

 いくら煌びやかに輝いていても、そんな大きなガラス玉になるよりも、 0.0000・・・・01 カラットでもいいから、本物のダイヤモンドになりたい、昔そう思いました。その思いは、多分まだ実現していません。人を見ていても、立派な地位にあったり、綺麗に着飾っていたり、お金をたくさん持っていたりと、目を見張る人は多いのですが、やっぱり、どこかその人にしかない、キラリと光る何かを持っている人が魅力的です。そんな自分になりたい、そんな人に出会いたい、そう思って、はや半世紀を生きています。
 多分、誰もが生まれながらに、ダイヤモンドを持っているのだと思う。それがいつか、どういう訳か、人に奪われるのか、投げ捨ててしまうのか、知らない間に失われていきます。大きくなっても、俗世の垢にまみれても、何か、美しい心映えを失わない人は、確かにいます。ピーター・パンは、そんな心の宝石を失うことを拒否して、いつまでも子供のままです。まるでピーターの心が妖精に変じて飛び出したのかと見紛う、宝石のようなティンカーベルを従えて。ちょっと前にプリプリで知られるグループが「ダイヤモンド」というヒットを飛ばしました。あの歌があれだけヒットした背景は、やっぱり誰もが、自分の中に、そして、自分と他の人との関係の中に、かけがえのない何かを見つけたいと願っているからなのだろうなあ、と考えさせられました。
 あなたはダイヤモンドですか?

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Nov 21, 2008

アップルパイとバウムクーヘン

 大丸百貨店の心斎橋店の屋上に、「BARAKURAイングリッシュ・ガーデン」があります。本拠地は信州にあるようで、知る人ぞ知る、のようです。園芸店なので、ちょっとした植物園の雰囲気で、人影も少なく、都会のオアシスです。そのBARAKURAが、この夏に同店内で、ある催しを撃ったときに、オリジナルのアップルパイを売っていました。あまり美味しそうだったので、買い求めて、食べたところ、これが真実美味しい! いままで食べていたアップルパイとは、一体何だったんだ、と考えさせられる一品でした。以前にロンドンの Harrods のカフェで食べたものと遜色ないもので、本場で修行した菓子職人がいるなと直観しました。
 その後同店の地下で、青森の「ローリエ」というお店のアップルパイを見つけました。青森はリンゴの本場なので、柳の下のアップルパイと即断して、直ちにそれを買い求めたのですが、残念、先のBARAKURAのものとは似ても似つかぬまがい物にがっかり。名産のリンゴはともかく、パイ生地がまったくダメで、食べるほどに粉々に散ってしまう味気なさでした。一度本当においしいものに出会うと、舌が肥えるのか、他の同様のものでは満足できなくなる自分の悲しさ。付き合っている人がいるのに、本当にいい人に出会ってしまったときのあのそら空しい感覚でした。
 そこで忠告。アップルパイの好きな人は、決してBARAKURAのそれを食べてはいけません。一度食べると、他の似たものはノドを通らなくなってしまいますからご用心。
 ついでに、バウムクーヘンのお話。滋賀県に本店がある?「たねや」という「和菓子屋」さんの、洋菓子部門が「マダムハリエ」といって、バウムクーヘンを作っています。これがその筋では有名で、近江八幡市にあるそのお店は、行列のできるお店です。梅田の阪神百貨店の地下にもテイクアウトのお店があって、いつも長〜い行列を作っています。試しに思い切って、並んで買いました。勇んで家に持って帰り、胸は期待でいっぱいに、いざ一口! ん、これって、普通!・・。何で皆さん並んでまで買ってんの??って感じでした。ユーハイムのファンの皆さん、ご安心を。やはり、バウムクーヘンはユーハイムをもって嚆矢とすると言っていいと思います。「たねや」というお菓子屋さんは、その底の浅い商品コンセプトを知って、もう和菓子も買いたくなくなりました。

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Nov 18, 2008

ある愛に関する断章

 引用は私の敬愛する、19世紀のある哲学者・経済学者の文章です。愛を語って秀逸と目したもので、もう30年間以上、私の愛のバイブルとなっているものを、ここに披露します。

「人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいするーまた自然にたいするー君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、ひとつの不幸である。」      (岩波文庫 城塚登・田中吉六訳)

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Nov 17, 2008

この3曲

 好きだった童謡は「月のの砂漠」でした。子供ごころに、何とも言えずエキゾチックで、現実離れした情景が目の前に広がる、絵画のような世界だった。それに、これが日本人の作った詞だとは、今も信じられません。

  ひろい砂漠を ひとすじに
  二人はどこへ いくのでしょう
  おぼろにけぶる 月の夜を
  対のらくだで とぼとぼと
  砂丘を越えて 行きました
  だまって越えて 行きました

 王子様とお姫様が、ラクダに揺られて、黙って旅をするさまは、とても自分の日常とは重ならない情景でした。童謡にありがちの、教訓めいた歌詞や、見え透いた子供だましの感傷もありませんでした。
(http://8.health-life.net/~susa26/syoka/douyou/sabaku.html)
 大人になった今でも、初めて接したときの感動は変わりません。

 童謡ではありませんが、ウィリアム・ヘイス作曲の「冬の星座」も大好きな曲でした。原曲は愛する女性に捧げた、熱烈な愛の歌だったそうです。

  ほのぼの明かりて 流るる銀河
  オリオン舞い立ち スバルはさざめく
  無窮をゆびさす 北斗の針と
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 星空のロマンというのか、悠久の宇宙へと誘う、その不思議な雰囲気に、子供なりに酔って、上手くもないのに、何度も歌ってみた曲でした。
(http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_c264.html)

 忘れ得ぬもう一曲は、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」です。

 いま荒城の夜半の月
 替らぬ光たがためぞ
 垣に残るはただ葛
 松に歌うはただ嵐

 第一印象は、寒くて、寂しい曲でした。どうしようもない郷愁に取り憑かれて、呆然とする、そんな歌でした。でも、歌は難しかった。まだ小学校に上がらない年で、父の転勤のため、大阪府の岸和田市に引っ越して行きました。新居は岸和田城内、二の丸公園内の一軒家で、冬の夕刻、日も落ちた人影もない園内を両親と歩いてたどり着きました。そのとき、時報代わりのオルゴールがほど近い市役所から高々と鳴り渡りました。その曲が、当時は知らなかった、「荒城の月」でした。木枯らしの吹き抜ける松林の中を、とぼとぼと歩きながら、この胸を締め付けるような名曲と出会ったのです。 
 この歌にはもう一つ、興味深いエピソードがあります。原曲の歌詞は4番までなのですが、もう随分前に、京都大学の現代国語の入試問題に、この曲の5番を作詞せよ、という問題がでたそうです。国語の勉強とは漢字を覚えること、のように思っていた受験生の度肝を抜いたに相違ありません。同時に京都大学らしい、と感じさせられる逸話です。
(http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/koujouno.html)
 
上記3曲とも、歌詞に月が出てきて、曲のテーマの重要な要素になっています。月は、居ながらにして半現実の心境を体験させる、不思議な力を持っていると、しみじみ思います。

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Nov 12, 2008

うどんとソバ、田舎者とは?

 軽いお食事を、という際に選択にあがるものに、うどんやソバがあります。一般に、うどんは讃岐を中心に西高東低で、そば信州・東京を中心にその逆と考えられています。東京の友人に、京都でもおソバを食べるの? なんて、尋ねられたりもします。
 うどんは好きですが、どうして、ソバも好きですよ。うどんと言えば、祇園花見小路からほど近い、初音小路にある萬屋 (075-551-3409) のネギうどん900円、でしょうか。トッピングの九条ネギの量は半端じゃあないです。
 方や、ソバと言えば、四条河原町を下がった西側にある、つるや (075-351-6685) の辛味大根ソバ 800円で決まりです。注文すると、「本当に辛いですよ」と釘を刺されます。京都市・鷹峯で辛味大根が獲れる間の季節メニューです。一度はまると、もうダメです。他のソバは、女性(失礼)・子供様御用達と思ってしまいます。
 ところで、ソバと言えば、バンダナを巻いた脱サラのお兄さんが、どこかで数年間修行してきて、ソバ粉何%ちゃら言って、こだわりぶっているのが昨今の悪習ですが、私はそんなソバは、要りません。
 本当においしい京都は、決して値のはるものではありません。ゆめゆめ、琴のテープを流すお店の、1980円やら2980円のなんとか御膳を食して、ああ京料理はうまい、などど仰らないように願いたいものです。それと、質の悪いものは、老舗の称する「名店」を雑誌の宣伝やいい加減な旅行業者が、地方の方々をお連れすること。自分の舌で、本当においしいものを探す人は、地方人でも、田舎者ではありません。

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Nov 10, 2008

清潔

 日本人の清潔感には、疑問を差し挟みたくなることがちょいちょいあります。ポピュラーなケースは、台所洗剤です。洗剤は油汚れに対しては大変有効です が、静菌作用も滅菌作用もありません。食器は、時をおかず、大量の水や熱湯で洗浄するのが基本です。汚れた食器を溜め洗いしているようでは清潔が笑いま す。汚れた食器を溜めると、食品の残渣にカビが繁殖します。カビは厄介で、その胞子は、100℃の熱湯でも殺傷できません。洗剤の悪は、体内に入ると、分 解されないことと、何よりも流域の川に流れ出て、環境を破壊することです。洗剤なしでも、工夫によって食器はきれいになります。
 最近ある病院で、落下細菌などの検査をしたところ、もっとも細菌汚染の激しかったのは、キーボードだったそうです。きれいにアルコールなどで、手を消毒しても、一度キーボードに触れたら、もう逆戻りしています。
 携帯も汚染源です。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=31&id=661556
 清潔の基本は、よく手を洗うことです。キーボードや携帯の汚染源は手なのですから。水で洗うだけで、80%以上の細菌を除菌できます。汚れた手で、食品はもちろん、口や生殖器に触れることを、恐ろしいことだと認識できなければ、衛生の根本はできていません。

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Nov 6, 2008

半七捕物帖

 光文社文庫の時代推理小説のシリーズに、岡本綺堂の「半七捕物帖」が収録されています。ふとしたきっかけで読み始めたのですが、これが病みつき。面白い。全6巻で、各巻400〜500頁ありますが、あっという間に読み切ります。
 半七捕物帖は、人形左七や銭形平次などの先駆けとなった作品で、捕物ものの泰斗です。何が面白いかと言って、絡んだ謎を解く半七の活躍は言うに及ばず、全編を通奏低音のように流れる、江戸情緒に酔わされます。江戸下町の息遣いというか、八つぁん熊さんが間近にいるような臨場感です。
 いくつか、本文から用語を拾ってみると・・

切組み、軽子、生(なま)成の仮面、鰊の蒲焼き、八百屋お七の睨みの松、鈴ヶ森の縄手、繻子奴、振出し、色っ早い、稗蒔売り、蛇こしき、あの女が胡乱だ、節季候、とんだ鏡山のお茶版、とんだ孫右衛門よ、潮干狩りの伝馬や荷足(にたり)船、逢魔が時、因業屋、亀戸の鷽(うそ)替え、得脱の祈祷、軽師職(きょうじや)、11月8日の鞴祭り、木連(きつれ)格子、べんべら物の半纏、出任せのちゃらっぽこを云って、芝神明宮の生姜市、白歯の生娘、利兵衛という白鼠、紅摺りの団扇、

 このような言葉の海を、謎に満ちたストーリーが展開していきます。
 いまや、ゆっくりと腰かけて本を読むという楽しみは、過去のものかも知れません。文章に接するといえば、携帯メールが大半という人が増えているのかも知れません。一日に30分でもいいから、カフェでゆっくりお茶でも飲みながら、本を読む、そんな時間をつくってみませんか?

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Nov 4, 2008

ざんげの値打ちもない

 北原ミレイという歌手がいます。故阿久悠さんの作詞した「ざんげの値打もない」という地味な名曲があります。その歌詞のなかで、4番だけが、録音の際に 削除されて、北原ミレイ本人の記憶の中だけに残っていました。最近某テレビ局の番組で、それを歌っていたので、その歌詞を書き付けました。

とうに二十歳も過ぎた頃
鉄の格子の空を見て
月の姿が寂しくて
愛というのじゃないけれど
私は誰かが欲しかった

 当時の世情では、収録不可能と判断されたのも無理からぬ内容です。今なら多分OKかなと思いますが、内容は鮮烈で、こんなに深い歌だったんだと、聞き惚れました。
 「ざんげの値打もない」、人のことだと思って、可哀想になんて思って終わるのですが、「ざんげの値打ちもない」のは、実は自分のことだと、思い至る人は、まだ救える余地があるのでしょう。
 

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